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肥前吉田焼の歴史2
 

陶器製造会社「精成社」の設立

明治維新後、政府は産業を奨励し、吉田山では旧士族の出資を中心とした
精成社(社の窯)という陶器製造会社が設立される。
明治13年のことである。
この時期、陶業界は非常な好景気を迎えていた。
従来の共同用の三登り窯を廃止して、個人用の新窯を続々と造っている。
ところが明治初年の陶業界の好景気も、世間一般の不景気の影響を逃れることは出来ずに、
明治16年には大不況の波が押し寄せる。
その結果、販路を中国へと求めなければならなくなっていった。

中国との取引に成功

その当時、長崎に住んで商売を営んでいた中国人と、
大規模の契約に成功したのが副島利三郎である。
これをきっかけに吉田山では中国向けの製品を作り、再び活気を取り戻していく。
このときに大串寅二朗、石井種五郎、山口又七らが製造家として地位を築いている。
中国が頼りのこの好機は、日清戦争が始まり、中国商人が自国との輸出入便利な
神戸へと住まいを移っていくと、自然消滅のかたちをとらざるを得なかった。

日清戦争の大勝、朝鮮との貿易

次の盛況が吉田山に訪れたのは、朝鮮との取引が始まった時である。
明治22年、朝鮮の商人、恒春號、丁致国の2人が石井種五郎の紹介によって
岡三平、大渡權蔵、山口又七との特約を結ぶと生産は増大することになった。
日清の国交が断絶して朝鮮の地を戦雲がおおいはじめると一時取引は途絶えるものの、
山口又七が先駆けて朝鮮京城に近い仁川港に支店を置いた。
ついで大串音松は、伊万里の商人が朝鮮との貿易を結び、吉田焼の販路拡張に努めた。
日清戦争の大勝は吉田山に大きな利益をもたらす。
朝鮮に渡った日本人はいたる所で陶器店を開業すると、
競って吉田山に製品を求めに訪れた。
さらに製造者が直接に輸出したり、店を構えるなどして益々繁盛していったのである。

ついに錦絵付を完成

精成社が創立されたころ、錦絵の研究は盛んにおこなわれていたが、
完成をみるまでにはいたらなかった。
明治44年に有田より錦絵の経験をもつ梶原墨之助を迎えて、
副島茂八の手により吉田山でもついに錦絵付に成功することになる。
吉田焼は錦絵の完成でさらに名声を高めていく。

大正を経て現代へ

朝鮮への販路を独占していたために活況が続いていた吉田山は、
大正10年頃から販路に侵入してくる尾張・美濃の製品に悩まされるようになった。
尾濃製品に刺激を受けた吉田山の一行は、
製陶法の改良を真剣に考慮するがために尾濃陶業地へと視察に出向くのである。
当地から戻った一行はさっそく窯の改善に着手して
従来の窯を廃止すると石炭窯に切り替えた。
生産費の低減をはかると共に、素材や技術の改良にも努める。
しかし、勢いのついた尾濃製品と世界大戦後の不景気に押されて、
ついに朝鮮への販路はあきらめることになる。
再び国内向けの品作りに励み、昭和時代を迎えていく。
今では燃料も、石炭から重油、ガスへと移り変わっていった。
そして現在の吉田山では、それぞれに個性溢れる窯元が吉田焼の再びの隆盛を目指して、
日々技術の向上に励んでいるのである。




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