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肥前吉田焼の歴史1

吉田村にて磁鉱発見

天正五年(1577年)、佐賀の龍造寺隆信公は大村の有馬氏を攻略せんと軍を起こした。
この時の案内役は吉田の城主、吉田左衛門大夫家宗である。
大村に向かう途中、吉田村を流れる羽口川の上流、鳴川谷にさしかかった時に、
部下のひとりが大声で叫んだ。
川の底に、白く光る石を発見したのである。
隆信公は兵を止め、川底を改めた。
これが我が国最初の磁鉱石であるという。
この当時、日本にはまだ本当の磁器はなかった。

朝鮮陶工、吉田山で陶業をはじめる

数年後、鍋島直茂公は朝鮮半島から多くの陶工を連れ帰り、
そのうちのひとりを吉田山へ送りこんだ。
陶業を創めようとするが、隆信公が発見した磁鉱だけでは足りずに
吉田村皿屋鳥居原に陶土を求めた。
これを加えて、初めての陶磁器が作られたのである。
その後、皿屋付近は12戸の製造者ができるまでになるが、
寛永年間に李参平が有田・天狗谷に磁鉱を発見すると、
陶土のほとんどが有田にて採れるようになり、
吉田山はこのあおりを受けてしまう。
人材、燃料の不足が起こり不況にたたされるのである。

鍋島直澄、大いに陶業に力を注ぐ

鍋島直澄公の時代、直澄公は陶業の将来性に着目して、大いに振興に力を入れている。
有田南川原より副島、牟田、金江、家永の四氏を派遣して指導にあたらせた。
小窯を廃止して大窯を造り、物資の補給など、多くの優遇措置をほどこしている。
藩政をゆずった後も永く陶業の発達に力を入れるよう計画まで立てている。
吉田焼を含めた、いわゆる有田焼が永遠の発展をするための基礎が、
直澄公によって確立されたのである。

天草陶石の輸入

正徳二年の天草磁鉱の発見は、陶業界に革新の光を投げかけた。
吉田山も、塩田港から天草陶石を輸入することにより、製品の質が向上していった。
さらに藩命により御用焼の指定を受けると、一層の技術進歩がみられ、
優れたものが生まれるようになる。

大阪との取引開始と不景気の襲来

文化・文政年間(1804年頃)に入り、大阪方面との取引が始まると、
吉田山は大いに潤い、品不足になるほど空前の隆盛を迎えている。
しかし天保の初めの頃(1830年頃)には生産は過剰となり、
価格は下落して経営が困難になるが、
好況時代に慣らされた豪勢な暮らしぶりはさらに悲境へと拍車をかけていく。
他の陶業地が好機に向かうきざしを見せ始めても、
すでに資力が枯渇してしまった吉田山には打つ手がなかった。
この状況を見かねた藩主は、尾形惟晴を派遣して再興の策をうつことにした。
復元に成功した吉田山は以来、一盛一衰にて明治維新を迎える。



肥前吉田焼の歴史2







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